『北北西に進路を取れ』| エルメス - Hermes

GINZA MAISON HERMÈS

Le Studio

『北北西に進路を取れ』
North by Northwest

美しき逃避行 Ⅲ
2009.7.4(土)~9.19(土)

ル・ステュディオは銀座メゾンエルメス10階にある40席のプライベートシネマです。

 

『北北西に進路を取れ』North by Northwest

1959年/アメリカ/テクニカラー/136分/35mm/英語​

監督・製作:アルフレッド・ヒッチコック
撮影:ロバート・バークス
音楽:バーナード・ハーマン
出演:ケイリー・グラント、エバ・マリー・セイント、ジェームズ・メイスン
フォトクレジット:(財)川喜多記念映画文化財団
ロジャー・ソーンヒルはニューヨークの広告代理店に勤めるビジネスマン。ある日突然、ジョージ・キャプランなる人物と勘違いされ、その命を狙うスパイから後を追われることとなる。
行く先々に仕掛けられた数々の罠や事件。幾重にも重なる不条理の中、真犯人を追求するソーンヒル。旅の途中で出会う、謎の女性、そして彼が間違われた男の正体とは?そして、この事件の真相とは?
 

作品について About Film

「北北西に進路を取れ」を初めて見たのは、ある日の午後、今はもう閉館となったシネアク・テルヌでのことだった。確か十二か十三のころだ。外の暑さとは打って変わって館内は涼しかった。消毒薬のつんとした臭いが薄暗がりのなかに漂っていた。今でもふとした拍子にその臭いが、あの日の記憶とともに私のなかによみがえる。
オープニングの映像からいきなり、これまで味わったことのない感覚が私の心臓のど真ん中に突き刺さった。やがて映像とそのリズムが怒涛のごとく溢れ出し、花粉を撒き散らした。ほとんど直後に、眩惑と恐怖に散りばめられた一種の麻痺状態が私を襲った。上映が終わると、私はよろめきながら立ち上がり、その場をのろのろと離れた。通りの光が私をさいなんだ。映像がフレームを超えてしまっていたのだ。映像の箍(たが)が外れ、なおも回り続けるので、輪舞を終えて軌跡を閉じることができなくなってしまった。エヴァ・マリー・セイントの顔の記憶を私は大切に持ち帰り、これが何ヶ月ものあいだ、自分の欲望の対象の顔と区別がつかなくなっていたに違いない。一種の悲しみが僕を襲った。なぜなら、これからの人生でここまで強烈な体験、こんな離脱感は二度と味わえないのではないかと不安になったからだ。
そのとき以来、八度目か九度目になる「北北西に進路を取れ」を、私は最近ニューヨークのブリーカー・シネマで見た。何年かぶりだったため、映画の特定の瞬間、瞬間が、あの時と同じ、めまいとパニック状態となって再び私に押し寄せた。あの時と似た、息詰まるような切迫感、未知の世界に連れていかれ、奇妙な状況に放り込まれたような不思議な気持ち。
魔法の力は薄れるどころか、逆にもっと先の、より深く、より微妙な知性の層に到達し、どっかりと根を下ろしたかのようである。その魔法は物語の理解を助けつつも、同時に不安を増幅させている。なぜならどこまで行っても、作品が目指しているもの、また、そこに到達するための進路をいくつもの可能性のなかからひとつに絞り込ませてくれないからだ。回り道、まちがった道、回廊、障害物が次々と現れ、わけも分からぬまま物語は山場に達し、見事、大団円を迎える。ケイリー・グラントの差し伸べた手がエヴァ・マリー・セイントを死の淵から救うと同時に、ハッピーエンドの栓を抜き、映画を終わらせる。たったひとつの手振りで、奈落の底への転落と、列車内での性的抱擁の前触れとをつなぎ合わせてしまうトリック、これはまったくお見事な発明だ。虚構の世界から目を覚まさせる「少々難あり」 の場面転換、これは、この物語の驚くほど厳格なロジックの中にぽっかりあいた大きな穴であり、フロイトが分析不可能とした「夢の臍」に似ている。ほとんど逆説的に、このラスト・シークェンス、すなわち彼女がさそう安堵の笑いは、たとえ彼女が再び欲望をかきたてたとしても、ソーンヒルとイヴ・ケンドールの愛の信憑性に疑念を抱かせてしまう。観客を罠にはめようとしているのか、最後の最後に一杯食わせようとしているのかという疑念が、まったくモーツァルト的な恩寵を湛えたこの瞬間の奇跡を、厳重な警戒態勢、闇の入り口へと追い払う。
ヒッチコックはおそらく他のどの映画作家よりも、私たち一人ひとりの中に覚醒し続けている子供の部分をまともに揺り動かすことに長けていた(ゆえに巨匠の一人に数えられるのだろう)。この子供の領域をコクトーは自らの作品のなかで絶えず探求し、評論「Opium(阿片)」において「子供時代そのものよりも、もっと曖昧で、もっと暗く、もっと絶望的」だとした。夜に輝く領域。物語やお伽噺の筋、挿絵や映像を盲目的に信じるがゆえに、恐怖が増殖してしまう残酷な領域。しかも、年月が経過すると忘却のせいで「北北西に進路を取れ」のプロットの記憶は消去されるため、見るたびに自分のなかの子供の信じやすさや激しい恐怖がよみがえるのだ。
映画が引き起こすこの知の消失により、ところどころで一種の初歩的視点が形成され、視覚欲動がむきだしになる。この「見たい」というむきだしの欲動をヒッチコックは視覚的マチエール(題材)のど真ん中で使用し、不規則な動きによってマチエールの優位性を強調し、その構造をとらえなおそうとしている。
なぜなら問おう。ヒッチコックが観客の眼差しに対して仕掛けた、この果てしなく精密なゲーム以外に、われわれ観客はこの映画が一体なにをねらっているのか、登場人物を欲望の虜にしているものは一体何なのか、少しでも理解できるだろうか?ヒッチコックは観客の眼差しをひとつのチェスの駒にしてしまい、偶然の入り込む隙のない感情戦略に従って、この駒を騙したり、拘束したり、ぶつけたりしながら、映画のチェッカーボード上で狂気のような速度で動かす。かといって登場人物たちには信念も動機も欠けているようには思われない。むしろ彼らには存在感がなく、不確実で、その未来は絶たれ、すでに死に神にとりつかれているかのようだ。死に神に自らの生と真心の大部分を譲り渡してしまったのだ。彼らは役柄上の職業(スパイ、広告マン、ダブルエージェント)を遂行することにより、皆さまざまな度合いで「売られて」いるのである。敵役たちでさえ、ひとつの共通の組織(地理的、感情的)に属している。映画のラスト前のシーンが象徴的にその卒倒するほどの規模をわれわれに再現してみせる茫漠たる機構。それはラシュモア山の巨大モニュメント。断崖の脇腹の岩にはめ込まれた権力者たちの不動の顔が、不吉を予見するスフィンクスのようにわれわれを監視している。この虚空に向けられた無言の眼差しは、しばしば「狼男」 が描いた有名な絵の記憶と結びつく。それは、集められ、しつけられた(あるいは立たされた)狼たちの身体が、これらもまた、夢のスクリーンを突き破り、運命の秘密を永遠に封印しにくるというものである。
ヒッチコックのほとんどの映画と同様、「北北西に進路を取れ」はひとつのネットワーク(記号、関係)を設け、これが引き起こす死を後ずさりさせる方法を語っている。そこでは登場人物たちは皆、ひとつの使命を果たすよう仕向けられ、これが彼らにとってのトライアルとロードマップになる。それは不可能な使命である。なぜなら各人は、自分が最も忌み嫌い、努めて避けようとしているものと対決させられるからである。そんな彼らに魅了される理由の大部分は、この真理に到達するための悲壮な探索にある。彼らは真理に対峙するすべがなく、これを取り逃がすたびに混乱を極めていくのである。
大いなる無知。謎の言葉に向かって彼らは急ぐ。方程式と格闘し、身も心も投げ打ち、その見返りとして惨事に次ぐ惨事に見舞われる。采(さい)は凶運の淵に投げ込まれたのである。
この冒険はいつも想像可能域の手前と向こう側とで展開し、現実が仕切りを挟んで偽物と戦い続ける神話的なスケールに到達する。
エヴァ・マリー・セイントをおいて他の誰も体現できない世界。ケイリー・グラントとのトリックめいた出会いを引き起こしたのは、彼女の愛のペテン師としての手並みなのか、彼女が放つほんものの神秘なのか、いずれとも言い難い。ならば男を罠にかける使命を負った彼女が、その標的の男たちを困惑させるために使う清純さには警戒すべきである。ところが、いったん仮面が剥ぎ取られると、この清純さは絶対的なものだと判明する(これはこの映画のなかの、かなり大きなパラドックスのひとつであろう)。
ジェームズ・メイソンとケイリー・グラントが、悪意に満ちた回り道を重ねながら追跡劇を繰り広げるあいだに、エヴァ・マリー・セイントは二重の裏切りを犯し(しかも舞台奥では同性愛さえも疑わせる)、これを境に二人の男のあいだに嫉妬が凝り固まり、結晶化する。
二人が(国連外交官の屋敷で)対面する最初のシークェンスから、映画の最後まで、ジェームズ・メイソンとケイリー・グラントは絶えずお互いの周りをぐるぐると回り、相手の攻撃を巧みにかわしたり、二重引金を演じたりしながら複雑なパ・ド・ドゥを踏んでいる。この振り付けの台本を取り仕切っているのは彼女だ。中心の空虚を占めるのも彼女だ。さっとかすめ合わせたり、軽く触れ合わせたり、不意に近付けたりしながら、二人の男を操り、折り重ね合わせ、互いの分身としておきながら、自分の嘘によって二人のあいだに決定的な憎悪の溝をつくる。ジェームズ・メイソンとケイリー・グラントとの板挟みになった彼女の美しさは、破滅的な光に輝き、彼女が感染させる愛(それは偽りか)が、ついにはネットワークに侵入し、その包囲をゆるめ、機能停止にまで至らせる。
軽く紗がかかった彼女の顔は、膨張する輝きをたたえている。カメラが駆使するモアレ効果がその肉感的で震えるような印象を増幅させている。ゆえに霞がかかり手の届かないその眼差しと、さざなみのような唇の揺らめきは、一瞬一瞬をこれからやってくる無限の和に引き渡す:永遠の味わい。
彼女にいつもつきまとう憂いの影、その無限の静寂、胸の奥の悲しみは、彼女の瞳に映画の秘密を映し出したり、消したりを繰り返す。映画の秘密が分析を逃れるほどに、また、それが引き起こす欲望、幻覚が捕獲を逃れ、闇の中に沈み込んでいくほどに、建物群、俳優たちがより鮮明に浮かび上がり、フレーム空間を満たしているように思われる。
すると観客の注意は登場人物の肩幅に向かい、彼らの体の線をつぶさに観察し、その顔の形をすばやくとらえる。ヒッチコックが登場人物の衣装に細心の注意を払ったのは、こうした理由からである。優雅さ、上流へのこだわりはもちろんだが、それ以上に装身具と衣装は、たくらみのスケールの大きさを強調し、そこから視線を遠ざけ、中身の俳優の存在感を際立たせるために使われる。装身具と衣装のラインは、頭のたたずまい、首の曲線を美しく見せ、足取りを強調し、身振りの特徴をはっきり分からせている。
エヴァ・マリー・セイントの黒いテーラードスーツ、緋色のドレス、ジェームズ・メイソンの三つ揃いのスーツ、それぞれの衣装には、ある魔法の意味が込められている。衣装は呪いを伝えるとともに、これを祓い清める役目を担っている。衣装は登場人物たちの特徴を際立たせ、彼らの紋章となる。ケイリー・グラントがカプランとはいったい何者なのかをようやくつきとめ、同時に自分が誰なのかも分かったと確信するのは、母親の皮肉のこもった視線を浴びながら、スラックスを試着しているときである。
猫のような静かさ、氷のような慇懃さの下に隠れたジェームズ・メイソンの張り詰めた心は非情である。彼のスーツのカットの硬さ、その暗い色は、犯罪的無気力に身を委ねた、防腐処理済みの死体のような印象を与える。この冷たい衣装の外見は、ケイリー・グラントの衣装のまったくアメリカ人的な、神経質な外見と呼応している。ケイリー・グラントは映画の中でただ一度をのぞき、ずっとこの鉄灰色のスーツをトレードマークのように着用している。このスーツは彼が冒険を繰り広げるたびに、染みや皺がつき、汚れていくが、いつのときも、彼の上品さは損なわれることなく、行儀の良さは完璧なままである。映画のショットそのものが身体に服を着せにくる。たとえば、ケイリー・グラントがトウモロコシ畑の端に立ってカプランが現れるのを見張っているときがそうだ。映像全体が待ちの体勢で不動の中、彼の周りはほとんど感知できないくらいかすかに揺れている。やがて、飛行機が脅迫的に接近してくると、カット割の中に視野狭窄が起こる。すると撮影がすばやく次々と進行し、カットの連続により、映像をケイリー・グラントの身体に合わせて調整していき、ついには埃の中に横たわった彼の身体、衣装、ショットそのものが突如として平行の帯になり、同じ地表に重なり合った層を形作る、あの不意の側面ショットに至る。
ケイリー・グラントのシャツはフィクションを推進するディテールのひとつとして、それとなく機能している。このアイロンかけたてのシャツを彼が脱ぐのは、数日間の冒険を通じ、ただ一度だけ(エヴァ・マリー・セイントと再会する直前)で、その後すぐに、どこから見てもそっくりな別のシャツを再び身にまとう。その完璧な白さも同じ、ポプリンの品質も同じだ。どんな事件が起ころうとも、この生地のほとんど非現実的な清潔さときちんとした折り目の位置は変わらないように思われる。生地が反射する青白い燐光が顔の日焼けを強調し、観客と俳優とのあいだに識別と見失いの戯れが成立する。また、このシャツは性的行為の無視、あるいはその先送りの確かな証拠として、明らかにエロティックな性格も有している。(エヴァ・マリー・セイントがパートナーのジャケットをこれみよがしにゆっくりと脱がすシーン。)
魔よけのシャツ。これはサスペンスの道具でもある。月のかけら、奈落の上で揺れ動く表示灯、シャツによってケイリー・グラントの身体は照準点と化してしまった。テクニカラーの青い夜の背景にくっきりと浮かび上がる白い染み、これは観客の欲望を代表してエヴァ・マリー・セイントの命を救い、その美しさを今一度あらわにする役目を負わされたのだ。
その瞬間から、フィクションの必要性が映像の仕掛けをすっかり乗っ取ってしまい、作者を失ったエクリチュールの無意識の論理に従って、すべての映像装置を配置し、これを機能させるまでになった。登場人物は単に物語の結末、すなわち物語の体系を最後に入れ子構造にするのに必要か否かに応じて、フレーム空間を往来し、退出するのである。

パトリック・バンサール(ル・ステュディオ プログラム・ディレクター)
 

上映スケジュール Schedule

上映日
7月4日(土)、7月11日(土)、7月18日(土)、7月25日(土)、8月1日(土)、8月8日(土)、8月15日(土)、8月22日(土)、8月29日(土)、9月5日(土)、9月12日(土)、9月19日(土)

上映時間
11:00/14:00/17:00

会場 Access

銀座メゾンエルメス  ル・ステュディオ
(東京都中央区銀座5‐4‐1 10階 TEL: 03-3569-3300)
 

予約 Reservation

※このプログラムの上映は既に終了いたしております。